明治期の絵葉書。向こうに小さく中の口橋もみえます。この頃は川の両側にケヤキの大木がありました。明治22年に新井田川に架けられた眼鏡橋は、昭和30年に現在の橋に架け替えられましたが、酒田町役場が明治27年10月の震災で全焼しているため、架橋に関する文書は何一つ残っていません。この橋に関する昭和29年8月21日の「日刊庄内」によると、設計はゲオルグ・デフォルグというドイツ人で、工事を請け負ったのは鶴岡の風間文太郎と浅井市郎とあります。ゲオルグ・デフォルグというドイツ人設計者について、明治政府によるお雇い外国人などをあたってみましたがこの名前の技術者をみつけることはできませんでした。
昭和29年8月21日「日刊庄内」昭和29年11月28日
昭和27年に水彩画家の春日部たすく(1903-1985)が来酒した際にたまたま通りかかった眼鏡橋について近く取り壊すと話したところ、非常に惜しがったとあります。この風景は高山長一郎、真下慶治も描いているとのことです。ここに出てくる「コロー」とは19世紀フランスの画家で、春日部氏はこの新井田川の風景をコローの作品のようで、これをなくすのは惜しいと言っています。人は普段から見慣れたものには感覚がマヒし、その良さに気が付かないことがあるのではないでしょうか。
古いものに執着しないのは酒田人の気質といえますが、どうにか小幡、相馬屋、宇八の三大料理屋が残ったのはとりあえずよかったと思います。